歌
2006年2月11日元気なときも、落ち込んでいるときも、私を励ましてくれた歌たち。
そんな、私と歌とのかかわりを今日は語ってみようかと思います。
(興味ない人は飛ばしてください、長いです)
幼稚園が、プロテスタントの教会付きのところだった。
特にクリスマスの時は気合が入っていて、聖誕祭の歌とか劇とかやっていたので、クリスマスのときに流れる賛美歌の有名どころのほとんどは、幼稚園の時から歌っていました。
小学校。ここはごく普通の小学校だったので、別に音楽とはそう関わりなく生きてきたのだけれど、そのかわり、1年生のときから通い出したピアノ教室が、うちから歩いて1分。走ると30秒。
当時はすごく怖い先生だったのですが、あまりに近所過ぎたために辞める勇気が出ず、毎週通う。
時は第二次ベビーブームの終わりかけ。
近所の中学校は諸般の事情で色々問題があったので、両親は中学受験させることを決意。
よく分かってない私(4年生)も「ま、いっか」と同意。
家でピアノを練習する時間があまりなくなるけれどどうする、と聞かれ、素直に「辞めたい」と言えず、「もう少しやりたい」といってしまったため、結局ずっとピアノを続けることになり。
でも、塾通いで忙しくなって、ピアノの練習もろくに出来ないのに通うようになってからは、先生が嘘みたいに優しくなった。
6年生の2月上旬。
なんとか、第2希望の女子校に合格。
ここに合格した事が私の人生にとって本当に良かったのかは、今でも謎です。
私はクリスチャンではないのだけど、今度はカトリックの学校。
やっぱり、合唱とか歌とか盛んなところでした。
お陰で器楽を勉強したことは一度もない。
部活も、管弦楽はあったけれど吹奏楽はなくて、未だに管楽器はさっぱり分からない。
部活はちゃらんぽらんした所に入っていましたが、6月の合唱コンクールがすさまじく、あれだけは良く覚えている。
中1の時にメゾソプラノに振り分けられ、そのまま6年間、主旋律を歌うことなく過ごす。
何が何だか良く分からないけれどとりあえず歌っていた感じ。
宗教曲ばっかり歌っていたけれど、あれはあれで、今思えば楽しかったのかも。
ちなみに、中学高校も、なんだかんだ言いながら近くのピアノに通ってた。
先生はもう諦めてて、好きな曲をやらせてくれた。
あの時に少しジャズナンバーを弾いたりしたけれど、ずっとクラシックに慣れていた耳には何だか不協和音に聞こえて、音も、コードも難しく感じて、結局インヴェンションとか弾いていた気がする。
中学2年のときに、「レ・ミゼラブル」との運命的な出会い。
ストーリー展開に追いつけないけれど、何だかすごいものを観てしまったって、本能が叫んでいたのを良く覚えている。
高校2年ごろから他のミュージカル(特に四季)にも観に行くようになって、このあたりから映画を全く観ない女になってしまった。
今も大好きな渡辺謙の影響で日本史の先生になろうと思っていたのに、なぜか親に騙され(笑)理系への道を進み、気づいたら医学部に進路を決めていた。
数学が全然出来なくて、物理なんか目も当てられなくて、ある教師からは「看護大学に進むの?」と言われ・・・・・・。
1浪しても数学は足を引っ張り続け、でも2浪は嫌だったので、とある南東北(笑)の大学に入学。
進学が決まって、やっとピアノをやめる勇気が出た。
大学といったら、部活。
女子校の雰囲気に飽き飽きしていた私は、なぜか剣道部に入部。
でも、勧誘会で滝廉太郎の「花」を歌っていた合唱部にも心引かれ、ものすごっく少人数の"合唱部"にも入部(当時6人!)。
6人中女性1人男性5人。
先輩よりも声量の大きかった私に、先輩は「じゃ私アルトやるから、あなたがソプラノで」。
えーと、私ずっとメゾソプラノだったんですけど・・・・・。
問答無用。低音パートが歌いたきゃ、部員を勧誘してね。
途中、諸般の人間関係のもつれで剣道部を辞め、合唱部1本になる。
剣道部を辞めた後、合唱部だけでは物足りなくなって、とある有志の社会人合唱団に最年少組で入団し、3年間歌ったりもした。この時もなぜか宗教曲だらけだったなぁ・・・・。この時もアルトが埋まっているということでソプラノへ。
でも、月1回の合わせ練習の他に、週1回みっちり音取り練習があって、練習指揮とグループの実行委員長に声の出し方からしごかれたけど、今までにない世界が楽しくて、ほぼ皆勤賞だった。
気が付いたら卒業年度。
部員不足でつぶれる寸前で「みんなで解散しようかー」なんて言っていた合唱部は、いつの間にか30人近くまで膨れ上がり、社会人合唱団でも3年間、最後までのびのびと歌わせてもらうことが出来た。
卒業後、働き出してからは猛烈に忙しかったし、「歌」といえば「飲み会の後のカラオケ」程度だったけど、やっぱり4年過ぎたあたりから血が騒ぎ出して、大学のボイストレーナーの先生のところにたまーーーーに行っては歌う生活が始まった。
車の中で大音量で好きな曲をかけて、大声で歌いながら職場への往復もしてたっけ。
去年の4月、突然母校の合唱部OBでの飲み会に誘われ、やっとOB会が立ち上がることを知る。
下っ端の私が発起人の一人になってしまい、事務仕事が押し寄せ、仕事と掛け持ちで結構辛かった(涙)。
でも結局、年配の強面のOBやOGも、歌うことが大好きで、働き出してもやめられなくて集まってきた連中ばかりで、そんな人たちと一緒にわいわいやるのは嫌いじゃない(どちらかといえば好き)。
そんな感じでまた歌に触れ合う機会が増えると・・・・・ミュージカルにはぽつぽつと行っていたのだけど、自分が歌えないというストレスが溜まってくるのです。
色々仕事の環境に行き詰まっていた時期でもあったし、思い切って音楽教室の扉をたたいたのが9月。
最初ピアノだけ・・・と思っていたら、色々やりたいことが出てきて、今では収拾がつかなくなってきています(笑)。
でも、今、こうしてまた歌える自分でいられる事に感謝しています。
たぶん、こうやって一生音楽と関わっていくんだろうなぁと思いながら、でも何年経っても中学の時から身に付いてしまった歌い癖が抜けなくて、結局下手の横好きで終わっていく将来の自分が見えます。
そして、「酒が飲めて声の良い人」が好きな男性のタイプだった私なのに、どうして、結婚した相手は酒が飲めず歌には耳を塞ぎたくなるような人だったのでしょう・・・・(笑)。
まぁ、今のところ私の好き勝手にやらせてくれるから、それはそれで・・・・。
そんな、私と歌とのかかわりを今日は語ってみようかと思います。
(興味ない人は飛ばしてください、長いです)
幼稚園が、プロテスタントの教会付きのところだった。
特にクリスマスの時は気合が入っていて、聖誕祭の歌とか劇とかやっていたので、クリスマスのときに流れる賛美歌の有名どころのほとんどは、幼稚園の時から歌っていました。
小学校。ここはごく普通の小学校だったので、別に音楽とはそう関わりなく生きてきたのだけれど、そのかわり、1年生のときから通い出したピアノ教室が、うちから歩いて1分。走ると30秒。
当時はすごく怖い先生だったのですが、あまりに近所過ぎたために辞める勇気が出ず、毎週通う。
時は第二次ベビーブームの終わりかけ。
近所の中学校は諸般の事情で色々問題があったので、両親は中学受験させることを決意。
よく分かってない私(4年生)も「ま、いっか」と同意。
家でピアノを練習する時間があまりなくなるけれどどうする、と聞かれ、素直に「辞めたい」と言えず、「もう少しやりたい」といってしまったため、結局ずっとピアノを続けることになり。
でも、塾通いで忙しくなって、ピアノの練習もろくに出来ないのに通うようになってからは、先生が嘘みたいに優しくなった。
6年生の2月上旬。
なんとか、第2希望の女子校に合格。
ここに合格した事が私の人生にとって本当に良かったのかは、今でも謎です。
私はクリスチャンではないのだけど、今度はカトリックの学校。
やっぱり、合唱とか歌とか盛んなところでした。
お陰で器楽を勉強したことは一度もない。
部活も、管弦楽はあったけれど吹奏楽はなくて、未だに管楽器はさっぱり分からない。
部活はちゃらんぽらんした所に入っていましたが、6月の合唱コンクールがすさまじく、あれだけは良く覚えている。
中1の時にメゾソプラノに振り分けられ、そのまま6年間、主旋律を歌うことなく過ごす。
何が何だか良く分からないけれどとりあえず歌っていた感じ。
宗教曲ばっかり歌っていたけれど、あれはあれで、今思えば楽しかったのかも。
ちなみに、中学高校も、なんだかんだ言いながら近くのピアノに通ってた。
先生はもう諦めてて、好きな曲をやらせてくれた。
あの時に少しジャズナンバーを弾いたりしたけれど、ずっとクラシックに慣れていた耳には何だか不協和音に聞こえて、音も、コードも難しく感じて、結局インヴェンションとか弾いていた気がする。
中学2年のときに、「レ・ミゼラブル」との運命的な出会い。
ストーリー展開に追いつけないけれど、何だかすごいものを観てしまったって、本能が叫んでいたのを良く覚えている。
高校2年ごろから他のミュージカル(特に四季)にも観に行くようになって、このあたりから映画を全く観ない女になってしまった。
今も大好きな渡辺謙の影響で日本史の先生になろうと思っていたのに、なぜか親に騙され(笑)理系への道を進み、気づいたら医学部に進路を決めていた。
数学が全然出来なくて、物理なんか目も当てられなくて、ある教師からは「看護大学に進むの?」と言われ・・・・・・。
1浪しても数学は足を引っ張り続け、でも2浪は嫌だったので、とある南東北(笑)の大学に入学。
進学が決まって、やっとピアノをやめる勇気が出た。
大学といったら、部活。
女子校の雰囲気に飽き飽きしていた私は、なぜか剣道部に入部。
でも、勧誘会で滝廉太郎の「花」を歌っていた合唱部にも心引かれ、ものすごっく少人数の"合唱部"にも入部(当時6人!)。
6人中女性1人男性5人。
先輩よりも声量の大きかった私に、先輩は「じゃ私アルトやるから、あなたがソプラノで」。
えーと、私ずっとメゾソプラノだったんですけど・・・・・。
問答無用。低音パートが歌いたきゃ、部員を勧誘してね。
途中、諸般の人間関係のもつれで剣道部を辞め、合唱部1本になる。
剣道部を辞めた後、合唱部だけでは物足りなくなって、とある有志の社会人合唱団に最年少組で入団し、3年間歌ったりもした。この時もなぜか宗教曲だらけだったなぁ・・・・。この時もアルトが埋まっているということでソプラノへ。
でも、月1回の合わせ練習の他に、週1回みっちり音取り練習があって、練習指揮とグループの実行委員長に声の出し方からしごかれたけど、今までにない世界が楽しくて、ほぼ皆勤賞だった。
気が付いたら卒業年度。
部員不足でつぶれる寸前で「みんなで解散しようかー」なんて言っていた合唱部は、いつの間にか30人近くまで膨れ上がり、社会人合唱団でも3年間、最後までのびのびと歌わせてもらうことが出来た。
卒業後、働き出してからは猛烈に忙しかったし、「歌」といえば「飲み会の後のカラオケ」程度だったけど、やっぱり4年過ぎたあたりから血が騒ぎ出して、大学のボイストレーナーの先生のところにたまーーーーに行っては歌う生活が始まった。
車の中で大音量で好きな曲をかけて、大声で歌いながら職場への往復もしてたっけ。
去年の4月、突然母校の合唱部OBでの飲み会に誘われ、やっとOB会が立ち上がることを知る。
下っ端の私が発起人の一人になってしまい、事務仕事が押し寄せ、仕事と掛け持ちで結構辛かった(涙)。
でも結局、年配の強面のOBやOGも、歌うことが大好きで、働き出してもやめられなくて集まってきた連中ばかりで、そんな人たちと一緒にわいわいやるのは嫌いじゃない(どちらかといえば好き)。
そんな感じでまた歌に触れ合う機会が増えると・・・・・ミュージカルにはぽつぽつと行っていたのだけど、自分が歌えないというストレスが溜まってくるのです。
色々仕事の環境に行き詰まっていた時期でもあったし、思い切って音楽教室の扉をたたいたのが9月。
最初ピアノだけ・・・と思っていたら、色々やりたいことが出てきて、今では収拾がつかなくなってきています(笑)。
でも、今、こうしてまた歌える自分でいられる事に感謝しています。
たぶん、こうやって一生音楽と関わっていくんだろうなぁと思いながら、でも何年経っても中学の時から身に付いてしまった歌い癖が抜けなくて、結局下手の横好きで終わっていく将来の自分が見えます。
そして、「酒が飲めて声の良い人」が好きな男性のタイプだった私なのに、どうして、結婚した相手は酒が飲めず歌には耳を塞ぎたくなるような人だったのでしょう・・・・(笑)。
まぁ、今のところ私の好き勝手にやらせてくれるから、それはそれで・・・・。
コメント